したいことは特に思いつかないが、したくないことならいくらでも挙げられる?
「したくないこと」ならいくらでも挙げられるのに!
…と思ったら意外とそうでもなかった。
この文章を書く中で、試しに自分がしたくないことをリストアップしてみると
- 人の需要を満たすべく特に興味もない作業をすること(平日の労働が主)
- 自分に期待をかけてくる意味不明な人々をあしらうこと
- 車を運転するなど「ちょっとした操作ミスが多大な影響を及ぼしてしまう物事を」扱うこと
- 責任の範囲が他人にまで及ぶことに着手すること
- 無駄にやることを増やして手が回らなくなること
- 一気に大金を使うこと
- 借金をすること
- etc.
というように、どうやら自分が嫌なことはハンドルが自分以外の存在に握られてしまい、制御不能になることであると一言で言い表せそうな気がする。
ハンドルを他者に握られてしまうことが嫌だというけれど
「車の運転なんてまさに自分でハンドル握るじゃないか」と言われそうだが、ちょっと手元が滑っただけ・想定外の事態が起こっただけで大惨事になり得るわけで、最早それは完全に運に支配されているじゃないかと感じるのである。
(例えば、急に子供が飛び出して来たときに適切に急ブレーキをかけられるかどうかなんてのは、運転手の生まれ持った反射神経とかその時の体調とかによる気がする)
もちろん、この世界は自分でコントロールできないことで溢れているということは分かる。
突き詰めればこの自分の意識や行動だって脳内の細胞とか、化学物質とか、それをいかに上手く産出できるか・利用できるかを決定する遺伝子とかで決まってしまい、自分でハンドルを握っていないのでは?と考えられる。
ただ、その制御不能の度合いが物事によって違うと思う。
特に「制御不能になったとき、影響がどこまで及ぶのか」が違ってくる。
じゃあどんなことが嫌なのか?
例えば、自分個人の家計簿をPCで入力するときに手元が滑って金額を間違えたとする。
「手元が滑ったこと」「入力金額を間違えたこと」は自分でそうしたいと思って起こしたことではない(制御不能だった)のだが、このことによる影響範囲などたかが知れている。
もう一度正しい金額を入力すればいいだけで、誰も困らない。
ただこれが、同じPC入力でも「世界的に有名な大企業が提供するクラウドサービスの公開作業」とかだったらどうだろうか。
入力ミスがあった部分がたまたま世界中のユーザからのアクセスを妨げるもので、自分一人のミスが世界レベルの大規模障害を起こしてしまったともなれば、「もう一度正しい値で入力しなおせばいいや」などと呑気なことを言っていられなくなる。
(責任を追及され、方々への対応に奔走することになってしまう)
なので、私が嫌なのは単に「ハンドルが他者に握られること」というよりも、ハンドルを自分が握っていないのに、責任は自分に振ってくることだと言えそうである。
おわりに
「自分は何が嫌なのだろう?」という疑問への答えが出たので、少し気分が晴れた。
ただ問題は、世の中そういうこと(自分がしたくてそうなったわけじゃないのに責任を問われること)ばかりなんじゃないの?というところである。。。
つくづく生きづらい性格をしているなぁ、と思う今日この頃である。
何をして生きていけばいいのか
全く見当がつかない。
そもそも自分の得意な分野が何なのかよく分からない。
外国語の学習は得意だが、それはあくまで何らかの形で点数化される試験においてのみであり、仕事に活かせるかと言われると全く自信がない。
(口頭でのコミュニケーションは疲れてしまうので苦手、かといって翻訳業が務まるほど文章の正確さに情熱を燃やせないという感じである)
一時期ITの勉強にハマっていた時期があり、プログラマとして就職したこともある。
これもまた、入社時のスキルチェックでは高めの評価を頂けた。
しかし、いざ仕事となると学んだ知識が全く活かせなくなってしまう。
センスがないのだろうか。
上に書いたようなことをしばらく考えていると、最終的に働くことに向いていないのだと気づいて虚しい気持ちになる。
労働に対して委縮してしまうこの性格をどう表せばいいのか、改善できるものなのか、そもそも変えるべきなのか、何も分からない。
資格を取ること
資格を取ることに関して、時間の無駄とディスる人がいるのは分かる。
その人たちの理屈も分かる。
しかし自分的には、いちいち自分のやってきたこととか今何をやっているかとか相手の様子を窺いながら伝えることなく、「資格」という肩書でそれなりの信頼を得られてしまうこと自体に魅力を感じてしまう。
自分を売り込むことが昔から苦手だった。
自己肯定感が高く、他者に向けて自分を売り込むことに何の抵抗も感じない人たちが全く別の世界に住んでいるように思えてしまう。
しかし昔から勉強は得意だったので、テストの点数や通っている学校で他人からは評価されることが多かった。ここには「他者に自分を売り込む」という行為は全く入ってこないので、何とか学生生活をこなすことができたのだと思う。
これが仕事を始めるようになるとなかなかそうはいかない。
万人に共通の教科書が用意されているわけではないし、何か分かりやすい指標があるわけでもない。「自分は〇〇がこのくらいできます」というのを一言で表してくれるものが一気になくなってしまう。
それは自分のような自尊感情の著しく低い人間にはなかなかやりづらいもので、社会生活全体を不安要素が包むようになる。
そこで資格である。
ある程度名の知れた資格であれば、「〇〇(資格の名称)を持っている」「〇〇で〇点を取った」と言うだけで最低限の信頼を得たり、場合によってはそれだけで高評価を得ることもある。
そうなるともう、他者への発信は苦手だがインプット作業は得意である自分のような人間にとって願ったり叶ったりの制度ではないか!と飛びつきたくなるわけである。
その資格を取得したことが将来的にあまり実を結ぶことがないとしても、である。
最近思うこと
おはようございます。
元々よく思っていたことですが、最近朝起きるときに
「何で今日も目覚めてしまったんだろうなぁ」と思うことが増えました。
僕は昔からあらゆることに対して不安があり、基本的にやらずに済むものは全部やりたくないし、ただ生きているだけで辛いタイプの人間でした。
3月に大学を卒業するまでは「せめて頑張って勉強して入った大学くらい卒業するまでは生きよう」という思いがあったので何とかなっていましたが、もうそのような目標も何もないのでそのうち自殺するんだろうなぁという漠然とした見通しがあるだけです。
(前から自殺願望はありましたが。。。)
でも自殺に失敗して後遺症が残ってより悲惨な状態で生きる可能性を考えるとなかなか踏み出せない自分がいるので、とてももどかしいです。
何というか、今自分に意識があるというただそれだけのことさえ嫌です。
ずっと眠っていたいですが、寝ると次の日の朝には目覚めてしまうので嫌です。
平日と休日
おはようございます。
今日は水曜日です。
月曜と火曜頑張って出勤しました。
何であと3日もあるんですかね。訳がわからないです。
大体平日5日休日2日ってバランスおかしいと思うんですよ。
決めたのはどこの鬼畜なんでしょうね。
もっとのんびり過ごしたいものです。
それではまた明日。
情報技術は人を楽にするのか
おはようございます。
たまには個人的な話題を外れて、社会的な話題について語ろうと思います。
今や様々なものがITによって実現され、自動化による大幅な時間短縮が行われています。
そもそもITは同じ処理を何度もしなければならず面倒であるタイプの仕事をコンピュータに任せて楽しようというコンセプトで進んできた一面があるので、時間短縮が可能になったこと自体は狙い通りでうまくいっているのではないかと思われます。
ただ、時間短縮によって余った時間をどう使うのかが問題だと思います。
その時間を余暇にあててのんびりするならいいのですが、実際はその空いた時間にさらに仕事を詰め込んで、それを解消するために更にITによる自動化を進めて…
というラットレースになっているのではないでしょうか。
私自身はアプリケーションの内部設計を知ったり、自分個人単位でちょこっとプログラムを組んで業務の効率化を考えたりが好きです。
が、効率化→空いた時間に別の仕事を詰め込む→効率化→…
の無限ループが社会全体で進んでいる今の風潮は何か急かされているようで好きではありません。
自分の勤めている会社が作っている製品も、かなり便利なものでありこれで特定の業務はかなり楽になるだろうという感想は持っています。
しかしそれが社会全体のスピードを上げ、何が何だか分からないようにすることを促進していると考えると、少し虚しい気持ちになります。
初め手懐けていたものも大きくなりすぎると手に負えなくなって自分の首を締めるというのは何事にも通じることなのでしょう。
僕自身は、小規模なアプリを自分で作ってそれで満足する程度で済ませたいです。まぁ仕事で製品開発するとなれば話は別ですけどね。
それではまた明日。